教科書也不會說的77事變真相
雅各賓派 2017-7-8 10:48:15 集合一下支那人戰前刻意攻擊日本僑民和外國人的事件,有d連中文維基都無,唔怪得教科書唔教
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中国の排外運動と労働運動[編集]

1915年(大正4年)、1919年(大正8年)、1923年(大正12)の排日運動は猛烈であったという[3]。1923年には宜陽丸事件が起きて、船長を射殺し、船客も殺害された[4][5]。

1924年(大正13)12月には、租界ボーイ領事館襲撃事件が起きた[6]。

1925年(大正14)6月1日にはイギリス租界暴動が起きて、日本人商店がすべて掠奪破壊され、日本人1人が殴殺された[7]。

1926年(大正15年)9月、商店三宜洋行が襲撃され、店舗、倉庫が中国人暴徒に破壊され、商品はもちろん、畳、建具、床板、窓枠までも剥がして持ち去った[7]。

1926年(大正15年)9月、国民革命軍が武漢を占領するころから、盛んに労働者を扇動し、人足や車夫、店員、工場員などに労働者団体を組織的に作らせ、二ヶ月ほどで200以上の団体、会員20万人を唱えた[8]。この労働団体の統制する組織が「総工会」で、共産党員が牛耳っていた[8]。総工会は糾察隊という6尺棒を持つ私兵を組織し、3000人を超えていた[9]。外国人を相手にするボーイなどの組織は「洋務工会」と呼ばれた[9]。

1926年11月、漢口では中国人ボーイや女中、また乳母のストライキと暴動事件が起きた[8]。糾察隊は6尺棒を持って租界を巡回し、三井物産の社員宅にその妻が一人でいたところ侵入し、押入れなどを勝手に開けるなど乱暴をした[9]。

1926年11月20日には、商店の川本洋行が中国人米屋から米俵4俵を届けてもらうと、糾察隊が「日本人には米を買わせない」と妨害し、2-30名が店内に押し入り、ショーウインドウや戸口のガラスが破壊され、商品を強奪し、店の主人は群衆にリンチを受けた川本洋行事件が起きた[10]。

1927年2月ごろから、日本租界外の同文書院付近の支那公園や富豪の屋敷の立ち樹や垣根などを引き抜いて持ち去るものがあった[11]。やがて日本人住宅にも及んだ。多くは付近の農民の女子供であったが、後には大人も出動し、大っぴらに斧で立ち樹を切り倒した[11]。農民協会で、外国人の境内であろうが、富豪の邸宅であろうが、立ち樹は中国人に授かったものだから当然奪取してよいと教えられたためという[12]。

1927年3月24日に南京事件が発生すると、中国人側は邦人凌辱事件を誇大に取沙汰し、無頼の徒は、漢口がそうなったら一番に若い女を狙うのだと放言していたとされる[13]。

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雅各賓派 2017-7-8 10:49:06 漢口事件(かんこうじけん/はんこうじけん)とは、1927年(昭和2年)4月3日、国民革命軍の武漢攻略の際、一部の無秩序な軍隊と暴民が漢口の日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を加えた事件。漢口四三事件とも言う。日本海軍の軍人も傷害や暴行を加えられた。被害は150戸、被害見積額は92万円[1]。共産党の扇動により発生した[2]。日本海軍の水兵と中国の少年との口論を端緒に次第に拡大していったとされる。

4月3日午後3時過ぎ、水兵2名が日本租界燮昌路の料亭「妻鶴」の横手を通行中、中国人の子供から投石され、口論中に30人ぐらいの支那人が食って掛かってき、車夫の一団が水兵を取り囲み殴り始めた[15]。水兵は一人の車夫を突き倒して、近くの料理店「山吉」に逃げ込んだ[16]。たちまちの間に野次馬も加わって、「山吉」とその隣の「浪花食堂」は跡形もなく破壊された[16]。さらに、「日本水兵が支那人を殺した」「車夫がナイフで刺された」といったデマが喧伝された[16]。日本租界北側の平和街に差し掛かかっていた農民協会成立大会の祝賀行列の一団がこのデマを聞いて、日本租界に殺到し、租界の三分の二は暴民によって埋められた[17]。日本人を見れば取り囲んで殴打し、日本人商店は軒並み襲撃された。これらの暴徒の襲撃は徹底的にしかも巧妙に行われた。事件を聞いて駆けつけた田中副領事も、日本領事だと叫んだにもかかわらず、暴行された。南小路から平和街に出る角の理髪店の隣の田村氏の宅では、産後間もない身を病床に横たえていた妻女が、暴徒によって足蹴にされ遺骸は放置された[18]。また、別の妊娠五ヶ月の女性が二階から引きずり降ろされ、殴られて血まみれになった[18]。

現在使われていない歴史的な旗?赤旗。1923年に作られた二番目のソ連国旗
午後4時ごろ、数千の群衆は子供を先頭に立て赤旗を振るい、指揮者の下に喚声をあげて河岸に殺到しようとしていたところ、海軍陸戦隊が空砲を放ち、数発の実弾を撃った[19]。すると暴民は雪崩を打って退却、略奪しつつ租界外に向かった[19]。平和街に接近するや頑として退かず、やむなく陸戦隊は本願寺の土堤に向かって機銃の威嚇射撃を行うと、群衆は逃げ去った[19]。陸戦隊によって租界を追われた群衆は、他国の租界にある日本人商店を襲撃した[20]。また暴徒は放火した[20]。

4月3日夜には日本人25名がイギリス艦ビー号に避難し保護された[21]。同仁病院も漢口から引き上げを行った[21]
日本人監禁[編集]

水兵11名、同人会病院の石井小兵衛、三井木行の石田倉之ら民間人数名らは殴打され監禁された[22]。水兵は飲食店にいたところを襲われ、散々殴打されて拉致され、フランス租界外の総工会本部に監禁された[22]。監禁中は足を縄で縛られ、青龍刀を突きつけられ愚弄された[23]。また、当時の中国の新聞にはこれらの監禁された日本人を「捕虜」として報じた[23]。

4月4日朝、唐生智は軍を派遣して水兵を引き取った[22]。唐生智は総工会に対して「日本側に有利な条件を容れさせるための人質なので、そのまま返したら承知せず」と言った[22]。唐生智が人質を日本側に送ろうとしても糾察隊は衛戍司令部を監視して妨害した[22]。総領事が協議した結果、7日夜にようやく取り戻した[13]。石井小兵衛ら数名は4日夜12時に釈放された[23]。

国民政府外交部長の陳友仁は事件の夜に駆けつけ、高尾総領事に対して遺憾の意を表し、当方にて全責任をもって解決すると言った。武漢衛戍総司令の唐生智も来て遺憾の意を表し、租界は支那軍隊にて護衛するので陸戦隊の撤退を要求した。総領事は支那側の誠意を尊重して陸戦隊の撤退を希望し、また支那側は軍隊を租界の周囲に配し、糾察隊とともに群衆を遠ざけ、日本人に危害を加えるな、略奪するなといったポスターを貼るなど誠意があるように見えたので、陸戦隊は一時大正ホールに引き上げた。しかし軍隊の略奪が行われ、直ちに陸戦隊を配備した。本願寺に進入した唐生智の軍隊は木堂内の略奪容疑で、何健の軍隊に代えられ、それも陸戦隊の抗議により、本願寺から撤退した。総工会の代表は「支那人が十人死んだ。発砲は不法だ。衝突の原因を明らかにされたい。陸戦隊を即刻引きあげられたい」など勝手な注文を持ち出したが、総領事のために一蹴された。また総工会は食糧封鎖を強行しようとした[13]。
雅各賓派 2017-7-8 10:54:00 南京事件,是1927年國民黨北伐軍隊攻占南京時發生的暴力排外事件,期間中國共產黨煽動暴亂。

南京事件發生於國共分裂前夕。國民政府蘇聯顧問鮑羅廷和武漢國民政府內的國民黨左派與其他蘇聯顧問,發動排英、排日運動。1927年1月4日,數十萬中國民眾衝入漢口英租界,英國軍警被迫撤出租界。1月6日,九江英租界發生同樣的衝突。英國最初將這兩起事件視為國民政府有預謀的對英國挑釁,因此號召其他各國出兵上海公共租界以表達維護租界的決心。1月6日、7日,各國達成決議除原先租界兵力外英國增派3300名兵力,美國出兵1400名,日本增派300名[1]。

與國民政府交戰的奉系軍閥一方,鮑羅廷也秘密策動郭松齡將軍反對張作霖。張、蔣兩人1926年秋天就開始秘密接觸,分別派唐生智和楊宇霆作為代表,展開秘密會晤,達成了共同驅逐共產國際勢力的協議,因此「南京事件」發生後不到兩周,張作霖便在4月6日得到了公使團的同意,派遣軍警突襲北京的蘇聯大使館、遠東銀行、中東鐵路辦公處,逮捕李大釗等共產黨人,並搜出共產國際發來的大量指示、訓令、顛覆材料(與馮玉祥的合作顛覆文件、紅槍會及煽動農民的紀錄、中共文件等,《蘇聯陰謀文證彙編》和武器彈藥。其中一份訓令內稱:「必須設定一切辦法,激動國民群眾排斥外國人」,「不惜任何辦法,甚至搶劫及多數慘殺亦可實行」,證實了蘇聯全面指揮顛覆國民政府的暴力運動、排外運動。

1927年3月23日,參加北伐戰爭的國民革命軍中央軍所屬的江右軍部隊抵達南京,張宗昌指揮的直魯軍退入南京城內,隨即在下關渡江北逃。當晚,未過江的部分直魯軍潰兵在南京城內進行搶劫活動,但除兩名正在街上行走的外國人及兩座已撤空的外僑住宅外,直魯軍並未襲擊其他外國目標。

3月24日凌晨,江右軍先頭部隊開入南京城,沿途鳴槍搜索,並向駐南京的各國領事館詢問有無戰犯藏匿其中。得到否定答覆後,這些部隊即平靜離開外國領事館。[4] 3月24日晨7時許,江右軍所屬的第2、第6、第40軍主力部隊未經抵抗即順利占領南京城及下關。

從上午9時許起,進入南京之國民革命軍第二、第六軍(第二軍副黨代表兼政治部主任李富春,第六軍副黨代表兼政治部主任林祖涵,共產黨員),開始劫掠英美日領事署及外人商店住家[5],一直持續到下午5時。南京城內和下關的外國領事館、教堂、學校、商社、醫院、外僑住宅均遭到侵犯和洗劫。金陵大學副校長文懷恩(Dr. J. E. Williams,美國人)和震旦大學預科校長(義大利人)遇害,此外英國僑民死亡2人,日本僑民死亡1人,法國僑民死亡1人。在襲擊中,英國和日本領事館成為襲擊的首要目標,英國駐南京領事Herbert A. Giles被槍擊傷,正在生病臥床的日本領事森岡正平也遭到槍擊,但是沒有受傷。[6]

下午3時,被圍在下關一座小山上的美國領事戴維斯向停泊在長江上的英國和美國軍艦發出開火援救的信號,英美軍艦開始炮轟南京。江右軍司令程潛一方面制止搶劫,一方面委託紅十字會代表同英美軍艦聯絡,請其停止炮擊。英美軍艦炮擊持續約1小時後結束,搶劫風潮於下午5時左右逐漸平息。

在南京事件中,外國僑民死亡人數為英國2人,美、法、日、意各1人。美國受傷3人,英、日各2人受傷,另有英艦「綠寶石」號上的一名英國水兵在江右軍發炮還擊時陣亡。外國領事館和僑民財產損失難以計數。中方死傷人數,根據各方面的調查,[7] 為死亡36至39人,傷數十人,一說傷數百人。

3月29日,日本駐上海總領事矢田七太郎發出電報:

此次南京搶劫事件為第2軍、第6軍、第40軍(魯滌平、程潛、賀耀組)中的黨代表、基層的共產黨派遣軍官及南京地區中國共產黨黨員合謀設計的組織行為。襲擊時有當地的共產黨黨員專為嚮導,執行對象與場所都有事先規劃。前者只限外國人;後者則選定領事館、教會、學校等洋人集中處。[8]

1927年4月6日,日本原外相指令其駐華公使,通過外交談判解決南京事件。4月11日,日、美、英、法、意5 國駐武漢領事反誣北伐軍造成南京事件,要求處分肇事者,被武漢政府拒絕。

1927年4月14日,武漢政府就南京事件向英、美、日、法、意駐漢口領事遞交答覆照會,承認「屠殺友邦人民,為國際公法及文明各國之通例所嚴禁,而對友邦人民在己國領土內者施屠殺之行為,其情形尤為重大;而轟擊友邦城市之行為,亦為嚴禁……」,並列舉五卅慘案和沙面慘案中英法等國水兵槍殺中國人民之事,以示抗議。在照會的其餘部分中,武漢國民政府提出由國際調查委員會調查南京事件元兇,若出於國民革命軍之過失,則對侵害外國僑民的行為進行道歉。此外照會還允諾保護外人生命財產,並提議取消不平等條約。

因英美炮擊也造成了中方百姓的重大傷亡和財產損失,南京政府希望美國能表示些許歉意做做樣子,但美方態度強硬,只同意為考慮南京政府面子,不把賠償寫入任何正式文件,秘密進行。3月底,中美「寧案」交涉結束。4月4日,南京、華盛頓同時發表《寧案中美協定》全文。
Shephard 2017-7-8 10:56:07 lm
雅各賓派 2017-7-8 11:01:06 濟南事件個中文維基簡直不堪入目
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済南事件(さいなんじけん、中国では五・三惨案)は1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣(第二次山東出兵)された日本軍と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件[1]。事件の発端については日本と中国では見解が異なる[1]。

また、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。[2][3]さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。

南軍の正規兵士約30人[1]が麟趾門街にある満州日報取次販売店の吉房長平方を掠奪、主人を暴行した。南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加えたため、久米川好春中尉率いる日本軍約30人[1]が現場に赴くと掠奪兵はただちに自分の兵舎へ逃走。それを追った日本軍に対して歩哨が射撃してきたので日本軍は応戦し、歩哨を射殺。それをきっかけに戦闘となり、中国兵による乱射掠奪は一挙に市中に拡大した。まもなく停戦の申し合わせができたが、中国軍はこれを無視し、白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍使さえ射殺する暴挙に出た。

外務省見解:国民革命軍兵士による済南商埠地の邦人店舗略奪事件をきっかけに日本軍と国民革命軍は衝突した[11]。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている[12]。

略奪などの被害がほとんど日本人のみに集中しており、第6師団参謀長は「午前十時を期し一斉に開始せられたること、および小部隊に至るまで手榴弾を分配しありしことなどより見るに、相当計画的に行われたること明らか」であると見ており、師団長も「略奪の背後には隊伍を整えたる大部隊あり、白昼隊伍を組み略奪を行う如きは組織的に計画されたること明らかなり」と述べている。また第6師団の戦闘詳報には次のように書いてある。
この虐殺行為は計画的のものなるや否やは、いまなお不明なるも、蒋介石と領事との問答および蒋介石その他の高級将校の言明に徴するも、日本軍との事端をなるべく避けんとする方針なりしが如く、従ってこの事件は上級将校の計画的暴挙にあらずして、計画的とするも下級一部隊の企図に基くものと判断せらる。しかれども、当時南軍一般の空気は左の如き事態なりしは、想察するに難からず。

従来排日の教えを受け、日本を侮りたる中級幹部およびこれらの率いる兵卒は容易に上級幹部の命令を行わざること
済南の支那人に南軍の威力を示さんとせること
日本軍はわずか三千にして南軍はその約十倍の優勢を持するをもって、到底日本軍は対敵行為を取ることなかるべしと判断せること
支那軍内部において為にする者ありて他を陥れんとせること

蒋介石が南軍は軍紀厳正であって事件を起こすようなことは決してあり得ぬと再三言明していたこと、南京政府内部では、共産党を排除したものの、共産党の疑い濃厚な分子が陰に国民党崩壊の機を窺い、広東派は失態に乗じて再び広東左派の指導権を回復しようと狙っていたこと、南京政府と革命軍の中で馮玉祥が勢力を伸ばしており、軍費不足による戦備不十分を理由に躊躇する蒋介石を強いて北伐に踏み切らせたこと、事件を起こした軍隊がほとんど共産主義的色彩の強かった指揮官賀耀組とその麾下、および馮玉祥の腹心の部下であった方振武とその麾下であったこと、事件解決を待たずして、山東管轄をめぐって蒋介石と馮玉祥の争いが起こったことなどから、蒋介石を窮地に陥れることを狙った馮玉祥の意図が働いていた可能性は少なくない。また、南方宣伝員とともに、共産党員が山東省に多数入りこんで策動していた。加藤天津総領事の報告によると、彼らは近時国民党より極端な圧迫を受けた関係上、国民党を憎むこと蛇蝎の如く、また戦乱をできる限り長引かせて自派策動の機会を得ようとする動機より、あらゆる手段を講じて北伐を阻害しようとする事実があった、という。[7]。
自由之子 2017-7-8 11:01:46
日本控制滿洲國o個時勁投資
重工業 棉花 開鑛
就算戰後俾俄佬搶晒d機
支那而家仲用緊日本留低d既遺產
唔係東北撚有工業
垃圾支那狗 多謝日本都嚟唔切

滿洲淪陷俾共匪咁耐就衰足咁耐
雅各賓派 2017-7-8 11:01:59 被害状況[編集]
日本人居留民[編集]

日本人犠牲者の検屍(731部隊被害者として誤用された写真は後述)

日本人犠牲者の検屍
1.藤井小次郎(40歳、土産物商)--頭および顔の皮膚を剥がされ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。
2.斉藤辰雄(桐材商)--顔面に刺創。地上を引きずられたと思われる全身擦創。
3.東條弥太郎(28歳、土産物商)--両手を縛られ地上を引きずられた形跡が顔面にあり。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。腹部射出口より約二尺ばかり小腸露出。
4.同妻きん(24歳)--全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。乳房に刺創。肋骨折損。陰部に木片挿入あり。
5.鍋田銀次郎(雑貨商)--左脇腹から右脇腹に貫通銃創。
6.井上国太郎(30歳、雑貨商)--顔面破砕。両眼を摘出し石を詰める。上膊部に刺創。左股に貫通銃創。
7.宮本直八(55歳、土産物商)--胸部貫通銃創。肩に刺創数箇所。頭部に純刀による切創。陰茎切除。
8.多比良貞一(34歳、土産物商)--頭部にトビ口様のものによる突創。頭蓋骨骨折。腹部を切り裂かれ小腸露出。
9.中里重太郎(28歳、土産物商)--顔面壊滅。頭骨粉砕。全身に無数の刺創。右肺貫通銃創。
10.高熊うめ(50歳)--肋骨損傷。右眼球突出。全身火傷。左脚下が脱落。右足の白足袋で婦人と判明。
他の二体は顔面を切り刻まれた上に肢体を寸断されたため、人定は不可能だった[16]。


日本の参謀本部によれば、被害人員約400、被害見積額は当時の金額で35万9千円に達した[17]。日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。当時の朝日新聞は「邦人虐殺数二百八十」と報じた[1]。

『世界戦争犯罪辞典』によれば、日本人居留民の死者は16人〜13人で、そのうち9人が虐殺された[1]。被害者の多くは朝鮮人の麻薬販売人や売春業者で、一般居留民のように避退せず、残留していたものとする[1]。岡田芳政少尉は、「殺された居留民は朝鮮人の麻薬密輸者で、日頃から悪行を重ねていたので、現地人に報復されたと聞いている」と述べた[18]

日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」とある[19]。

佐々木到一は「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だつた。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。 ある者は焼かれて半ば骸骨となつてゐた。焼残りの自足袋で日本婦人たることがわかつたやうな始末である。わが軍の激昂はその極に達した」「もっとも、右の遭難者は、わが方から言えば引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かった」と記録した[20]。また、佐々木到一は事件当時、他の被害者同様に中国側の兵士と民衆に暴行と略奪も受けており、所持していた総司令部の護照のおかげで殺されずに済んだと陸軍省へ報告している[21]。佐々木の記録について、作家の児島襄は「佐々木中佐によれば、中国兵ではなく「土民」に惨殺されたふしもあったが、この時期に冷静な判断は期待し難い」(『日中戦争』Ⅰ)として、佐々木説を疑問視している[22]。

日本軍の損害は、死者26名、負傷者157名[23][1]。被害者の治療は同仁会 済南病院にて行われ、軍、警察、中国側の立会いの下に同病院内で検死が行われた
SUV 2017-7-8 11:04:40
八國聯軍打清朝之前,好似係清朝殺佢地大使在先?
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義和團起義 清政府唔理 比多國警告會出兵中國本土平息暴亂 點知清政府反向多國宣戰
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義和團問題係一見到非清國人就殺


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知唔知鄭立哩番話堅定流?

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係咪而家D中史改撚左好多,我當年中三讀中史時,課本一定有講義和團既惡行同東南互保條約呢幾單野。

我00年前讀都無講
再之前有講?

我03-04年左右讀中史都有讀東南互保條約

我記得英法果時對於報復的手段分歧係勁大
去到差d決裂 (本來英法關係已經差)
最後先折衷象徵式破壞圓明園同搬走珍寶,唔係燒
燒的主要係支那人,乘機搶掠

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雅各賓派 2017-7-8 11:05:16 中山水兵射殺事件(なかやますいへいしゃさつじけん)は、1935年11月9日に中華民国上海共同租界で、日本海軍の中山秀雄一等水兵が中国人により殺害された事件。事件名は、たんに中山事件、あるいは中山一等水兵射殺事件[1]、中山水兵が死後に進級したため中山兵曹射殺事件[2]とも呼ぶ。

楊文道の反蒋介石・反日活動
事件を引き起こすことになる秘密結社同義協会会長の楊文道は[2]、1932年の第一次上海事変の際に第十九路軍(zh)諮議となり配下を率いて便衣隊として活動していた[2]。また、事件実行犯となる葉海生も日本側の後方撹乱を図っていた[3]。その後、楊文道は十九路軍の蔡廷鍇と連絡を取り合いながら上海における反蒋介石運動の指導者として活躍し、1933年の福建革命(zh)時には中国共産党とともに上海で反蒋介石暴動を起こそうとしたが、中華民国政府に計画が発覚すると廈門へ逃亡していた[2]。

事件勃発時の楊文道は、蔣介石派に対立する広東派系の第十九路軍[4]から多額の資金援助を受けており、上海・廈門における大暴動計画を樹てるとともに日本の勢力を利用して蒋介石政権の打倒を図ろうとしていた[2]。
多発するテロ事件

1935年1月21日、汕頭邦人巡査射殺事件[5][6]、7月10日、上海邦人商人射殺事件[5]、9月19日、漢口邦人巡査射殺事件[5][6]など中山一等水兵射殺事件が起きるまでには数々のテロ事件が繰り広げられていた[6][7]。11月1日には日中提携に最も関心をもっていた汪兆銘中華民国行政院長が十九路軍の元小隊長等に狙撃される汪兆銘狙撃事件が起きた[8][9][10]。このような事件が続発するさなかの1935年当時の上海には28,000人の日本人が居留していた[11]。

事件発生
1935年11月9日午後9時頃、上海共同租界北四川路(zh)竇楽安路で、日本海軍の上海陸戦隊員中山秀雄が秘密結社同義協会会長楊文道の指揮命令下の葉海生によって射殺された[2][5][12]。竇楽安路は上海共同租界と中国人街の境界道路だった。犯行は背後から拳銃で射殺する態様で、使用された拳銃は第一次上海事変時に楊文道が十九路軍(zh)から支給されたものであった[2]。
事件影響

事件を受け、日本政府当局は直ちに中国側に犯人捜査を要請したが、犯人は逮捕されなかった[12]。事件後には、上海在留日本人が経営する商店が中国人暴徒によって襲撃される事件が発生し[12]、現地では日中開戦説が生まれ数万人の中国人が避難民となった[1]。これらの事件を重視した日本は、中国政府に排日活動の取締を要請した[12]。犠牲者を出した海軍からは中国に対して陳謝、犯人逮捕、排日取締などを要求すべきであると意見具申がされた[13]

1936年4月15日、日本側の捜査に基づいて上海工部局(zh)警察が、青島で被疑者として楊文道・葉海生・周謝栄の広東省出身者(en)3名とモスクワ出身の朝鮮人「ジャック」こと韓奇良を逮捕した[1][5][12][14]。5月1日、上海第一特別法院で第一回公判が開かれた[15]。葉海生は、取り調べで犯行を自白し、現場検証では犯行動作を実演して見せており[16]、公判でも犯行を認める供述をしていたが公判の回を重ねていくうちに、自白は強要されたものであったとする発言を行い、審理は混迷した。これに対し、日本政府は公正な判決が下されるよう中国側に再三申し入れた[5]。証人に対し、同義協会などから脅迫状が送られることもあり日本政府は証人保護に努めた[2]。早期判決を求める日本側に対し、上海工部局は、1935年11月1日に起きた汪兆銘狙撃事件との関連性を主張し、審理の延長を求めた[3]。
點呀? 2017-7-8 11:06:01 其實睇下啲歷史書邊個寫既姐
雅各賓派 2017-7-8 11:06:49 成都事件(せいとじけん)は、1936年(昭和11年)8月24日に四川省成都でおきた、日本人4名が殺傷された排日事件である。

襲撃直後の大川飯店

左上海毎日記者深川経二右大阪毎日記者渡辺洸三郎の遺体

1936年(昭和11年)8月24日、四川省成都で、大阪毎日新聞上海特派員渡辺洸三郎[1][2]、上海毎日新聞社員深川経二[1][2]、南満州鉄道上海事務所員田中武夫[2]、漢口邦商瀬戸尚[2]の4名が同地の中国人学生をふくむ暴徒の襲撃を受け、渡辺、深川の2名が殺害され[3]、田中、瀬戸の2名が重傷を負った。

これより先、日本の外務省は満州事変後閉館中の成都総領事館を再開すべく岩井総領事代理を派遣したところ、中国側は日本の既得権益を無視し、開館絶対反対を表明し、民衆運動によってこれを阻止しようと図った。

この結果、8月初旬以来、四川省、殊に成都において「開館反対、岩井代理入川阻止」の学生大会、市民大会などがあいついで開かれ、排日の風潮は高まった。

そのため岩井代理は重慶に足止めされ、成都入りはできなくなった。
岩井代理と同行した上記4名は目的が単なる視察であったので、8月21日、重慶を出発し、成都に赴いたところ、24日、宿舎である大川旅館において暴徒に襲撃されたのである。

路上にうち捨てられた二人の遺体は、夏の烈日を浴びゴム風船のように膨れ上がって変色した[4]。

9月3日に北海事件が起き再び在留日本人が殺害された[3]。事件発生は日本国内を憤激させ、両国国交は一時危機に瀕した。

日本はこれを機にこの種の事件発生の原因である排日の根絶、これに関連する諸懸案の解決を期して、9月、川越駐中大使を通じて全般的国交調整交渉を開始した。

以来、4ヶ月にわたって交渉が継続されたが、遅々として進まず、かつ11月綏遠事件が勃発するなどして、12月交渉は不成立に終わった。

ただし成都事件は北海事件とともに30日になって中国側の陳謝、責任者の処罰、被害者の損害賠償をもって解決された。
辣椒(已殘) 2017-7-8 11:07:27
其實睇下啲歷史書邊個寫既姐

關咩事呀
你係邊個國家大就會學邊一種歷史咖啦
睇下你離開校園之後 仲會唔會有求知求真嘅慾望啫
雅各賓派 2017-7-8 11:08:31
日本控制滿洲國o個時勁投資
重工業 棉花 開鑛
就算戰後俾俄佬搶晒d機
支那而家仲用緊日本留低d既遺產
唔係東北撚有工業
垃圾支那狗 多謝日本都嚟唔切

共產黨,蘇聯係滿洲都有屠殺日本僑民
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雅各賓派 2017-7-8 11:11:02 1927-1937年呢十年,長期係發生在華日本人/外國人被殘殺既事件,但日本真係非常克制,只係濟南事件出兵左一次,其他都係賠償就算
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自由之子 2017-7-8 11:14:44 樓上果件臭閪支那賤種, 家陣講緊日本同支那既事, 改圖都對吓題好無
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雅各賓派 2017-7-8 11:15:41 1946 通化屠殺事件

1945年8月8日,蘇聯政府宣佈對日作戰,百萬蘇聯紅軍分兵進入中國東北境內。

9月22日,中国共産党軍驅逐了通化的中華民国政府軍(由満州国軍與満州国警察轉籍)。

1946年1月10日、在通化城內日本投降関東軍造反的流言四起。

據八路的情報,國民黨與関東軍軍人打算對共軍總部龍泉旅館進行「劫獄」,救出被監禁的藤田実彦上佐(後來硬要他"擔任"通化事件首謀者)作為具有象徵性的領導人,峰起驅逐共產黨。

共產黨先將通化国民党部書記長孫耕暁與中華民国政府有関係者数十人嚴刑拷問後槍殺~

2月3日,深夜果然有日本關東軍分批攻擊龍泉旅館與警察局,企圖救出藤田実彦與滿州皇族(婉容皇后・浩皇弟妃・皇女嫮生)。

但是関東軍計畫失敗,共產黨展開全城整整兩周的地毯式大搜捕。

通化的一般日本市民不論與事件有無關係者在零下20度的氣溫中被趕出屋子,共產黨將他們趕到15公里外的通化郊外二道江集中囚禁,走的慢的、掉隊的當場射殺~

尤其八路軍中的朝鲜人部隊(李紅光支隊)為報「36年之恨」(1910年 - 1945年)尤其殘暴。

凡是躲在洞裏或隱藏處的,二話不說手榴彈就丟進去,凡是躲地窖裏的統統堵死出口和通風口一律活埋。

看見日本女人就強姦,通化避難的日本婦女都先剃掉頭髮,在臉上塗上污垢,並穿著破爛的衣服,但共產黨不管還是照上,而且還要在日本人家族親人父親丈夫兒子前進行強姦,~日本小孩哭鬧就斃掉「消音」。

3000多日本人被剝扒掉衣服趕到二道江的工廠宿舍,每120個人被硬塞入不到8個榻榻米的小房間,空間狹小,很多人必須是站著,5日裡大小便都在裡面,臭不可聞。

由於缺氧,使日本人精神引起異常,只要有怪呻吟聲~共軍就從窗外射入子彈「消音」。

屍體也不拖出去,任其在屋內血流成河~血腥味更令人難以忍受。


有被關到精神錯亂日本人向會日文的朝鮮人士兵要求射死他們~別再折磨人了!

禁閉5日後,日本人被放出屋外,朝鮮人民義勇軍兵士用棍棒就是一陣毆打,沒死的也多處手腳骨折。

接下來中國共產黨人開始拷問這些日本人,16歳以上日本人男性被拉到凍結的渾江(鴨綠江的支流)開始排成1排虐殺槍決,屍體在和解凍後流向渾江下游。

許多遭中国共産党與朝鲜人凌辱的日本女性在事後自殺。
雅各賓派 2017-7-8 11:23:11
樓上果件臭閪支那賤種, 家陣講緊日本同支那既事, 改圖都對吓題好無
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晨早block左
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自由之子 2017-7-8 11:23:12 連全宇宙最有公信力既百度百科都夠膽攞出黎
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